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死の刺

     死の刺(はり)は罪なり,罪の力は律法(おきて)なり。「コリント前書15,56」

     τὸ δὲ κέντρον τοῦ θανάτου ἡ ἁμαρτία, ἡ δὲ δύναμις τῆς ἁμαρτίας ὁ νόμος.

     Stimulus autem mortis peccatum est, virtus vero peccati lex.

     (1.Cor.15,56)


 前から読みたかった梯久美子『狂うひと 「死の刺」の妻・島尾ミホ』(新潮社 2016)をようやく読み終えました。私小説の極北と言われる島尾敏雄『死の刺』(1977)は好んで読む作品ではありませんが,大きな衝撃を受けましたし,カンヌでグランプリをとった小栗康平監督の映画「死の刺」(1990,松阪慶子・岸部一徳主演)も忘れがたい感動を覚えました(個人的に岸部一徳のファンなので)。
 後に作家となる島尾敏雄は,第2次世界大戦末期に九州帝大で東洋史を学んでいましたが,繰り上げ卒業となって海軍に入り,特攻隊長として奄美諸島に赴任します。人情にあつい優しい隊長さんとして島民に慕われ,旧家の一人娘,後の島尾夫人ミホと恋仲になります。島尾は特攻隊として死ぬ定めの身であり,島尾が出撃するのを見送りながらミホも自殺する覚悟でした。ところがちょうど終戦となり,出撃命令は遂に来ません。島尾は本土へ帰還し,ミホは後を追い,二人は結婚します。
 すばらしいハッピーエンドになるべき話だと思うのですが,そうはなりません。一旦死の淵に立つ極限状態まで追い詰められて覚悟を決めた恋人同士が,あっさりと全てをご破算にされても,直ぐには平和な愛の家庭に戻れないものであるようです。一夜明けてみれば,頼りになる隊長さんは,生活能力のない青白い作家となり,しかも浮気が絶えません。旧家でお姫様のように育てられたミホも,奄美出身で差別され,貧窮と子育てと夫の浮気に苦しむ生活となります。ある日とうとう我慢の限界となったミホは惑乱し,家事と育児の一切を放棄し,浮気について夫を責め続け,家庭は地獄絵となります。精神を病んだミホと夫が病院に入るところで小説は終わります。
 ほぼ島尾夫妻の実体験をそのまま描いた私小説であるこの小説の背景を,梯の評伝は深く掘り下げていきます。本当に多くの発見がある労作で,私など素人にはとても全てを論じ尽くせませんが,「狂気に到るまで愛を貫いた,南洋の巫女の血を引く魅力的な女性」を描いた美しい物語とばかり評してはいられないようです。積年の蒙は啓かれたように思います。
 ただ今しみじみ思うのは,あの小説も,あの小説の元になった島尾夫妻の体験も,グローバル化とか国際交流ということの酷薄無残な歴史的現実,容赦の無い赤裸々な実態であったということです。このことはもっと多様に考察し,自ら学び,後世にも伝えるべきだと改めて思いました。