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中動態

 気鋭の哲学者,國分功一郎氏が『中動態の世界』を世に問われ,評判になっているようです。言語学者の端くれである私からして,まことに我が意を得たりというところで,とても嬉しく,また頼もしく思います。言語学の諸概念や方法はどれをとっても,言語という社会的諸関係の基礎を論じるためのものなので,社会科学や哲学などの他分野に転用して幅広い議論に援用する誘惑に満ち満ちています。言語学の中にいてもむずむずするのですが,しかし言語学の中でそういう議論をし,スペキュレーション(思弁!)を弄ぶと,袋叩きにあいます。ゼミや研究会の段階で布団蒸しです。もうしません,許してください,明日から心を入れ替え,もっと丹念に辞書を引き,用例を調べる作業に邁進します,と誓うまで追い込まれます。私はできも悪く態度も悪い学生でしたから,先生方も見捨てていましたが,まともな同業者はみな若い頃から徹底的にこの点はしつけられています。

 中動態(medium)と言うのは,能動態(activum)と受動態(passivum)とならぶ,動詞変化の文法カテゴリーの一つである「態」(genus verbi)の一つです。インドヨーロッパ語では,ギリシャ語(古代にも現代にも)とサンスクリット語にはっきりと形態上の区別があり,他の言語においても様々な方法で表現され,残存しています。
 能動態と受動態という記述の方法は,きわめて単純に思えますが,実はまだまだ分からないことが多いのです。ラテン語・現代ドイツ語・現代スペイン語に見られる非人称受動(自動詞の受動態)とか,形態的には受動態なのに意味は能動態というラテン語のデポーネンティア(能動態欠如動詞)とか英語における一連の特殊な受動態の表現("be suprised at~"のような)とか、再帰動詞・代名動詞とか,これら学習者を悩ませる「奇怪な」文法事項の存在は,能動態と受動態という伝統的な文法記述に大きな不備があり,全体を完全には説明できないことを表しています。
 古代ギリシャ語やサンスクリット語を学んだ人にはすぐわかると思いますが,もともとインドヨーロッパ語の古層においては,能動態と対立しているのは中動態であり,受動態は中動態の特殊な一形態として後から形成されていったようです。

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 古代ギリシャ語を見ますと,「中動態」の用法はだいたい5つであったようです。「主語」の周りに「主語のテリトリー」のようなものを想定し,動詞で表された行為の結果がその「主語のテリトリー」の中に何らかの形で戻って来るものを「中動態」で表していたようです。この意味で,能動態でもなく受動態でもない,あるいはその両方でありうる表現です。

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 考えてみれば,私たちの行為は,完全に能動とも受動とも言いきれないものが多いようです。「驚く」という思いをしているのは確かに私だが,自分が選んで自由に「能動的に」驚いたわけはなく,必ず何か外の要因から「引き起こされた」「受動的な」感情なのだろうから," be surprised at" という英語の特殊な受動態による感情表現は,よくよく考えてみると,受動と能動を不法に股にかけるような文法的な矛盾を犯しても表現しようとしたものがあるのではないかと,しっくりくるものがあります。

 また他方で,能動態と受動態が完全に理論的に等価で,裏返しただけの表現であるなら,なぜそんな無駄が文法的に存在するのかも不思議です。
 実際はそうではありません。日本語では昔「迷惑の受け身」ということを言いましたが,今の研究ではどうでしょうか。私がお世話になった言語学の先生は,よく「ここに劇場が建てられる」と「ここに劇場を建てられる」という例文を上げ,前者を翻訳受動態と呼び,後者こそ日本語の元々の受身表現なのだと説明していました。能動態と受動態を完全に裏返しの等価物として疑わない学校文法に毒された目からすると,一見後者の例文が奇妙なものに思えます。人によっては即座に,後者などは言わない(そんな日本語ない!)と言ってはばかりません。私たちはしばらく考えないと,後者の意味が納得できないのです。それほど英語の学校文法の影響は大きいのです。

 まだまだ言語学には,使える概念がたくさんあります。ジェンダーや構造主義だけとおっしゃらず,どんどん持って行って下さい!