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10月はたそがれの国

 夏休みが終わると一気に仕事が増え,無能な私はてんてこ舞いをしていますが,「舞い」をするばかりで仕事はちっとも片付きません。情けないやら悲しいやら,このところぐっと冷え込んできたし,本当に寒々しい気持ちになり,10月はたそがれの国,というフレーズを自然に思い出しているのです。
 レイ・ブラッドベリの最高傑作といわれるこの短編集の原題は The October Country で,「たそがれ」というのは昔気質の翻訳らしい,愛すべき過剰さだと思います。敢えて装飾を付けなかったレイ・ブラッドベリの方が,さながら俳句で季語のイメージをどこまでも「せめる」ように,October という言葉のイメージを大事にしているようにも思えます。
 私くらいの世代なら大抵少年の頃に,この短編集に魅了された時期があるのではないでしょうか。けれどもやがてJ・G・バラードや,フィリップ・K・ディックや,カート・ヴォネガットのそれぞれの強烈さの前に,物静かでメルヘン的なレイ・ブラッドベリの世界に耽溺している自分が気恥ずかしくなってきます。子供っぽさの上塗りに過ぎないもので,こんな遍歴も,いやまことにお恥ずかしい限りです。
 もちろんレイ・ブラッドベリはそんな甘い人ではない。ディック『高い城の男』や,オーウェル『1984』にも勝るとも劣らないディストピアを描き出した『華氏451度』の作者なのですから。愚民支配のために文字と読書が禁止され,ファイアマンは火事の消火ではなく,禁制品である書物を摘発し,焼却するのが仕事になっていた近未来の世界。森に逃れ、各人1冊の書物を暗記して,子孫に伝えていくために生きることを選んだブック・ピープルたち。暗澹たるこの世界の苦しみも,やるせなさも,レイ・ブラッドベリは独特の暗い美しさの中に描き出します。———やがて恐ろしい爆発の中で世界が滅び,それを遠くから見届けたブック・ピープルたちが,世界の廃墟へと静かに戻っていくところで物語は終わります。反知性主義への激しい怒りが,これ以上はない静けさの中に描かれます。
 華氏451度とは何か。最初に「本のページに火が付き、燃え始める温度」だと書いてあります。本を焼く仕事のファイアマンのヘルメットには,その象徴として「451」と書かれています。しかし燃え上がるのは,本当は書物ではありません。書物を弾圧する者への怒りです。その怒りの火が,誤った世界を燃やし尽くし,滅ぼしてしまうことになるのです。
 10月のもたらす喪失感と寂寥,それを愛おしむ柔らかな心と,書物や知性を禁圧する憎むべき世界を燃やし尽くす怒りの火とは矛盾しません。少年時代の私の幼稚さ愚かさの中では,決して分からなかったことでした。今でも昔と変わらず,晩秋も,黄昏時も大好きですが。

巷に雨の降るごとく

 あいにくの雨の週末ですが,大学は案外活況を呈しています。さすがに秋ですね,学会の大会あり,検定試験あり,さる運動種目の東日本大会あり。私に関わりのあるイベントもあり,早朝から出勤している次第です。大半の時間は自室で待機しておればよいので,溜まった仕事を少しでも片付ける良いチャンスです。

巷に雨の降るごとく
われの心に涙ふる。
かくも心ににじみ入る
この悲しみは何やらん?
(ヴェルレーヌ,堀口大學訳)

というほど悲しいわけでもなく,屋内に籠っておられるときに,窓外の雨を眺めるのはそれなりに楽しいものですらあります。だからむしろ気持ちは中原中也の方です:

雨は 今宵も 昔 ながらに、
昔 ながらの 唄を うたつてる。
……
さてこの 路次を 抜けさへ したらば、
抜けさへ したらと ほのかな のぞみだ……
いやはや のぞみにや 相違も あるまい?

雨に閉じ込められて,徒な望みを弄ぶ楽しみです。しかし何を望んでいるのでしょう。雑用がなくなること?管理業務がもっと減って,好きな授業や研究に打ち込めること?―――そういうことも望まないではありませんが,適度に仕事があって,こんな人間でも人様の役に立てるのはむしろ有難い恵みですからね。
不思議なことに,雨を見ながらぼんやり願っているのは,自分でもよく分からないのですが,「かわいそうな囚人」が逃げ切ることのようです。皆さんはいかがですか?

一本の桔梗を見る

かはいそうな囚人が逃げた
一直線に逃げた

×

雨の中の細路のかたはら
草むらに一本だけ桔梗が咲いてゐる

(尾形亀之助)

レクイエム

 秋の陽射しがまぶしい午前中,5年越しのカエサル『内乱記』の講読授業をしておりました。もうポンペイユスも殺され,もうすぐ読み終わります。直ちに『アレクサンドリア戦記』に入る予定です。興味のある方はどうぞご参加ください。
 ローマはもとより内乱状態,行った先のエジプトもクレオパトラとプトレマイオスが骨肉相食む争いの真っ最中で,誰が誰を裏切って襲いかかるかわからない状態です。
 ふと学生のテーブルを見ると,黒々とした大判の書物が出ています。はて興味を持ってタイトルを覗くと,ベンジャミン・ブリテン「戦争レクイエム」の合唱スコアでありました。ものすごい大作に挑むものです。譜読みだけでも大変でしょう。重苦しい曲ですが,20世紀音楽の最高傑作であることは間違いないでしょう。
 1940年の「皇紀2600年奉祝曲」に海外の作曲家に委嘱した中で,ブリテンは「レクイエム」を送ってきたので,祝典にふさわしからぬという理由で受け取りを拒否されたという有名なエピソードがあります。時々誤解されるのですが,そのとき拒否された「レクイエム」は "Sinphonia da requiem"という別の曲です。
 私もそうですが,日本人はレクイエムというもの,とくにこの言葉が好きなようです。映画のタイトルの翻訳に,原題にはないレクイエムという言葉が入っていたりします。もう形骸や残滓でしかないにしても,それでもまだ脈打っている私たちの宗教感情の拠り所が,「死者を悼む」ということにあるからでしょう。特に求めない限り,「死者を悼む」ことでようやく,私たちは敬虔な気持ちになり,祈る機会を持てるのです。
 本当にそうならば,「死者を悼む」ことを,私たちはもっと大切にしなくてはならないと思います。ブリテンが「戦争レクイエム」の冒頭に引用した Wiflred Owen の言葉をもっとかみしめたいと思います。

My subject is War, and the pity of War.

The Poetry is in the pity ...

All a poet can do today is warn.

愛と自己愛

 学部学生向けのリテラシーの授業を担当しています。大学生らしい感想文や小論文のあり方を考え,コメントカードの書き方からレポート、論文の書き方の違いを意識して貰う基礎の授業を行っています。当然言語コミュニケーションの基礎的な考え方を知って貰いたいと思います。―――言葉というものは,必ず何かの問いに対する答えになっており,同時に何かの答えを求めた問いになっているのだよ。この問いと答えの連鎖こそが言語コミュニケーションである。ワンセットの問いと答えのことを「論点」と呼ぶのだよ。・・・
 そこで実例を挙げます。よく使うのは,パスカル『バンセ』や,ラ・ロシュフコー『箴言集』です。François de La Rochefoucauld(1613-1680) :"Réflexions ou Sentences et maximes morales" (1664)

たとえばパワーポイントで次のようなラ・ロシュフコーの言葉を映し出します。

「嫉妬の中には愛よりも自愛の方が多く含まれている」

Il y a dans la jalousie plus d' amour-propre que d' amour.
reflexion morales 324

いったいどんな「問い」に答えようとして,こんなことを言ったのだと思うか,と尋ねます。
結構正解を言ってくれます:「愛があるからこそ嫉妬するのだ」「嫉妬するのは愛のある証拠である」といった,まあ通俗的な省察です。
 それが嘘だというのでしょう。「愛」ですって?嫉妬の中にあるのは相手に対する愛などではない。自分への愛に過ぎぬのではありませんか。自分の方が可愛いから、思い通りになってくれぬ愛の対象への嫉妬を抱くのではありませんか,というロジック。
 ここで反論を受け付けます。大ロシュフコーに反論してみて下さい。たかが17世紀フランスの,金と権力こそほしいままにしたとはいえ、狭い宮廷社会の中でひねり出した人間省察ごときに,科学知識も技術も格段に進み,ネットを駆使して一瞬にして世界中の知識を我が物にできる時代の皆さんが負けていることはありません。さ、さ、どうぞ!
 学生たちみんな若いくせに,17世紀の通俗恋愛論に感心するばかりで,すぐには反論は思いつけない様子です。そこで私の意見を参考までに申します:なるほど,愛しているから,だの,愛があるから,だのいろいろ主張するその愛というものに,相手への愛と,自己愛とが未分化に含まれている,ある種の詐欺ごまかしがありはせぬか,というラロシュフコーの指摘には時代を超えて通用する鋭いものがあるとは思います。愛とは何かを考えるのに,これは重要な視点です。でも,相手への愛が本物であればあるほど,逆に相手への愛と自己愛とが融合して,一体となりはしませんか。狭い自己愛の殻が破られ,相手への気持ちを貫くことこそが新たな自己愛の形になる,自分を犠牲にしても相手の幸せと喜びに尽くすことが自己愛の満足となる,そういう成長を遂げはしませんか?
 ―――というような授業をしては,学生のコメントカードやレポートを,新たな教材開発の参考資料として使わせて貰います。
 今年は初めて学生の方からここで再反論が出て,それはそれは見事な反撃になっておりました。あまりに嬉しくて,ここで紹介いたします:ラ・ロシュフコーに対して,自己愛の方が多いからではなく,自己愛が足らないからこそ嫉妬するのだ,と言ってはいけませんか。自己愛が足りず,自信というものがないからこそ,激しい嫉妬に悩むものだと思うのです。

 見事!何という素晴らしい答えでしょう!

 こうやって,どんどんリテラシーや言語コミュニケーションを学び,コミュニケーション能力を磨いて参りましょう!