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今日明日と大学院説明会です!

 後期が始まってから,相変わらず書類に追われて更新を怠っておりました。
 あっという間に,来年度開設の大学院新学府第2回説明会の日になってしまいました。

10月12日(水)17:00~18:30 西千葉キャンパス・法政経学部棟106教室
 千葉大学大学院 人文公共学府 公共社会科学専攻 説明会

10月13日(木)17:00~18:00 西千葉キャンパス・法政経学部棟106教室
 千葉大学大学院 人文公共学府 人文科学専攻 説明会

 予約は必要ありません。学内外を問わず,関心のある方に大勢集まっていただきたく思います。

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三宅純氏の「君が代」編曲

 先のリオデジャネイロ・オリンピック閉会式における2020年東京大会プレゼンテーションは,首相のコスプレも含めて色々話題になりましたが,私として最も感動したのは三宅純氏が手掛けた新編曲の「君が代」でした。楽譜は公開されていないようですが,感激した複数の人があの閉会式の録画から苦労して採譜し,Youtube に電子音源で公開しています。三宅純氏本人もそのことは知っており,完全に正解の人はいない様子だが努力に賛嘆の念を表面するなど,鷹揚な反応を示していて,まあ内輪でオマージュを楽しんでいるうちはお目こぼしということでしょうか。

 お雇い外国人のエッケルト Franz Eckert (1852 - 1916) が明治時代 (1880) に編曲した旧版(現行)の「君が代」では,雅楽の旋法で作られたこの曲のことを,D音(レ)で始まりD音(レ)で終わるにもかかわらず第6音(シ)が半音下がらない特殊なニ短調,という理解をしたエッケルトが,かなり苦労して和声をつけています。最初と最後の部分がユニゾンなのは,無理をしてニ短調の和声に当てはめても,完全な終始感がどうしても得られず違和感が残るので,苦し紛れに和音なしのユニゾンにしたら,怪我の功名でかえって荘重な良い効果が得られた,と聞いています。
 けれども,本当のことを言って,雅楽の旋法に強引に西洋和声を付けたエッケルトの編曲には,全体に言い知れぬ違和感がぬぐえません。明治以降の東西文化融合の苦闘と矛盾がそのまま表れているようにすら思えます。

 D音(レ)で始まりD音(レ)で終わるにもかかわらず第6音(シ)が半音下がらない特殊なニ短調,というのは,ヨーロッパ音楽史では古代ギリシャ音楽理論にいうフリギア旋法,教会音楽理論にいうドリア旋法として存在してはいますし,長音階と短音階以外の旋法による新しい調性の研究や,そもそも調整を放棄した十二音音楽のような技法の開発も,20世紀の初めにはかなり進められていたはずですが,仮にエッケルトがそういうヨーロッパ音楽の新潮流に親しんでいたとしても,「君が代」の編曲には殆ど活かせなかったでしょう。芸術における「前衛」や「革命」が問題となる場ではなかったでしょうから。
 かなり以前からエッケルトの「君が代」編曲への違和感を訴える音楽家は多く,ヨーロッパ近代音楽の基本になる3度和声ではなく,雅楽の旋法に親和性の高い4度和声による新たな編曲の試みがあったように覚えています。
 三宅純氏の今回の新編曲は,まさにこの4度和声による編曲の集大成であり,旋律が持っているもともとの旋法に対応する新たな和声の完成であると,私には思えました。
 「東洋的神秘」「東欧民族音楽の響き」といった,失礼ながら「コロニアリズム」的衝撃で三宅純氏の編曲を評する向きもあるようですが,あたっているところもあるとはいえ,私は少し違う意見です。
 私はそれほど熱心に三宅純氏の作品を聴き込んでいる人間ではありませんが,氏の作風は「衒い」「挑発」「わざとらしさ」などとはおおよそ無縁で,きわめて理知的に芸術的な必然を積み重ねていった端正なものであると思っています。「君が代」に内在する本来の調性を的確に明らかにして見せた,強固な説得力こそが三宅純氏の編曲が与える衝撃の本質であると思います。

 大陸渡りの外来の旋律に無理に日本の詩歌を合わせたので,「君が代」にはそもそもメロディーと歌詞との間に不調和があるという見解もあったように聞いています。けれどももともと詠唱から発展してきたような音楽には,元の自然な言語の音声を異化して独特の効果を出す、ということを必ずします。私にはグレゴリオ聖歌や声明しか例を思いつきませんが。そして,統語意味論的アクセントのある「中心の音」と,それを「補助する音」・「次へつなぐ音」の2種類を音階上に設定して,音楽的流れを作り出していきます。「君が代」も,メロディーと歌詞の関係が不自然なのではなく,このような音楽の原型に近いのだと思っています。三宅純氏の編曲においては,その「中心音」と「補助・経過音」が極めて丁寧に意識されているように思えました。

 三宅純氏の編曲を他の人が採譜して作った「再現版」を,老人に聞かせてみたところ,「君が代」だとは全く気付かず,後から聞いて驚いていました。ボーカロイドの音であった時点でもう耳に入ってこなかった様子です。興味深いエピソードとして紹介しておきます。
 昭和50年代に九州の高校で「君が代」をジャズ風に編曲してお式で演奏した先生が処分を受けた事件がありました。編曲自体が処分の原因ではなかったのかもしれませんが,まだまだドラスティックな編曲は受け入れられない時代だったのでしょう。今回のリオデジャネイロの東京ショーと比べると,本当に隔世の感を禁じ得ません。こもごも思うところがありましたので,素人ながら一言申しました。
 
 

「人社研はこう変わる」

 本日の10月28日(金)の昼休み,附属図書館N棟1階のプレゼンテーションスペースで,「人社研はこう変わる」という30分ばかりのお話をいたします。準備不足で不安ですが,よろしかったら立ち寄ってみて下さい。

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Fanfare for the Common Man

 10月28日(金)のプレゼンテーション「人社研はこう変わる」には,多数の御来場をいただきましてありがとうございました。
 最初に客寄せを兼ねてちょっとした悪戯を致しました。「平成29年度人文公共学府スタート!」くらいしか書いていない,内容はないが派手に動くだけのスライドショーを急ごしらえで準備し,アーロン・コープランド Aaron Copland (1900-1990) の 有名な「一般市民(庶民)のためのファンファーレ」"Fanfare for the Common Man" (1942)を伴奏に流しました。主眼はこちらでございます。
 フランクリン・ルーズベルト大統領の下で副大統領を務めたヘンリー・アガード・ウォレス Henry Agard Wallace (1888-1965)が,同じ1942年,第二次世界大戦の戦況が反ファシズム陣営にとって最も暗かった時期に行った有名な演説「一般市民の世紀」"The Century of the Common Man" に霊感を受けて作曲されたこのファンファーレは,改めてこの21世紀に公共性と国際性を理念として発足するわが人文公共学府の成立を告知するのにふさわしいものと思いました。
 「一般市民の世紀」という広く流布しているタイトルは実は後からつけられたもので,公式にはこの演説は「自由世界の勝利のための代償」"The Price of Free World Victory"というのだそうです。この演説の中でウォレスは,この戦争を勝ち抜いた後に来るのが「アメリカの世紀」"American Century"だという人がいるが,そうではなく,奴隷状態から自由を守り抜いた「一般市民の世紀」が来るのだと,高らかに宣言したのでした。
 コープランドにこのファンファーレの作曲を委嘱したシンシナティ交響楽団の常任指揮者グーセンス Eugène Aynsley Goossens(1893-1962)は,コープランドがこのファンファーレに「一般市民のためのファンファーレ」というタイトルを付けたことに驚きましたが,直ぐにウォレスの演説との関連を理解すると,初演が1943年3月12日の「納税の日(確定申告最終日)」the income tax day に当たる(当時は現在より一か月早かったのだそうです)のは相応しいでしょうと返答し,コープランドもそれを喜んだということです。
 基本的な税制民主主義への共感も含めて,アメリカ主導の国際性(グローバル化),自由主義・民主主義,ヒロイズムに素朴だが力強い確信がみなぎっていた時代でした。この時代の精神を体現したこのファンファーレは,その後現在に至るまでマスコミやポップミュージックで盛んに再利用されているようです。
 リュリやシャルパンティエも私は好きですが,王侯貴族が凱旋したり,狩猟に出かけたり,舞踏会や謁見の場に入場したりするためのファンファーレに堂々と対抗したコープランドのこの作品も私は愛します。大学にとって明るいことばかりの時代ではありませんが,1942年のアメリカの芸術家たちが昂然と頭を立て胸を張ったように,この時代に改組を進める以上は,その本質や理念を見失わずやるべきことに立ち向かいたいと思います。ささやかにその気持ちを,コープランドのファンファーレにこめました。